1963年 |
文学座に入座。当時、芥川比呂志、岸田今日子らの大量脱退で混乱中だった宇野重吉の推薦で入座。演劇制作郎の責任者として、積極営業を展開、特に現在の演劇鑑賞会の前身である労演を営業の柱にしたり、開揚時の名古屋中日劇場と結びつけたり、松竹と提携して南座公演を実現させるなどして、危機を切り抜ける。
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1971年 |
同座を退団。浅利慶太主催の日本ゼネラル・アーツヘ。主に日生劇場の越路吹雪ロングリサイタル、ミュージカル公演路線を定着させるため、浅利氏の下で働く(日本ゼネラル・アーツ取締役)。
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1976年 |
独立。主に異色のフラメンコダンサー長嶺ヤス子のフラメンコと創作舞踊の全公演を制作。アフロ、サンバ、ロックフラメンカ等の新機軸のフラメンコに加え、芸術祭大賞受賞の「娘道成寺」を制作。この舞台と、声明とフラメンコを融合した「曼荼羅」でニューヨーク公演を果たし大きな反響を呼ぶ。 |
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1989年 |
銀座セゾン劇場によるレニングラード・マールイドラマ劇場の企画招聰に協力。同劇場の招聘公演は、阿部のリスクによるものであった。
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1990年 |
モスクワ・ユーゴザーパド劇場を初招聘(パルコとの共催、朝日新聞社名義主催)。同年、モスクワ・マールイ劇場をジャパン・アーツが招聘。その助っ人をしたことが縁で、ジャパン・アーツで働くことに。1995年より、取締役(アーツ・エンターテインメント代表)。1991年:ソ連邦崩壊直前のグルジアから、トビリシ国立アカデミー・ドラマ劇場を招聘(パルコとの共催。朝日新聞社名義主准)。 |
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1993年 |
モスクワ・マールイ劇場、2度目の来日(主催、ジャパン・アー・ツ、朝日新聞社名義主催)。 |
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1996年 |
チェコのブラックライト・シアターを招聘(主催、ジャパン・アーツ)。ジャパン・アーツでは、その他、主に、ボリス・ポクロフスキー主宰のモスクワ室内歌劇場の招聘制作、ボリス・エイフマン主宰のサンクトペテルプルグ・バレーシアター手掛け、日本公演の定着化をはかる。共に、ドラマ性を重視のオペラ、バレエ団。 |
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1998年 |
ジャパン・アーツを定年退職。 |
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2000年 |
(有)阿部事務所設立。同年、アートスフィア、全国演劇鑑賞団体と共同主催、モスクワ・ユーゴザーパド劇場を1990年に次ぎ招聘。ロシア近代古典の名作「どん底」(ゴーリキー作)、「検察官」(ゴーゴリ作)、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」で、全国11都市で34回公演、高い評価を受ける。 |
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2001年 |
再びアートスフィアと共同主催、同劇場オープン10周年のメイン企画としてロシアでユーゴザーパド劇場と人気を二分する“旬の劇団"として活躍中のロシア国立ポクロフカ劇場を招聘。チェーホフ作「三人姉妹」、ゴーゴリ作「検察官」と「結婚」の三作品の招聘公演を実現。 |
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2002年 |
11月、富山市でモスクワ・マールイ劇場3度目の公演「かもめ」を招聘。
ユーゴザーパド劇場の 「巨匠とマルガリータ」。 |
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2006年 |
11月、モンゴル国立馬頭琴交響楽団を招聘。Bnkamuraオーチャードホールほか、全国各地で公演。
12月、ロシア国立ボルコフ劇場を招聘。東京芸術劇場にて、「検察官」「熊」「結婚申込み」を上演。 |
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2007年 |
10月、マルシャーク生誕120年を記念して、俳優座の柿落とし演目でもあった「森は生きている」をロシアのコミサルジェフスカヤ記念アカデミー・ドラマ劇場を招聘し上演。 |
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2008年 |
トルストイ生誕180年を記念し、トルストイ幻の作品「闇の力」を、ロシア国立マールイ劇場による再演。鋭意準備中。 |
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